世界のお酒知識

世界のお酒の歴史・知識を深めたい

ウォッカ、ウィスキー、ワイン、ジン、ラム、テキーラ、コニャック、、、 世界には様々な歴史背景をもって生まれたお酒がたくさんあります。                    そんなお酒の知識を持つことは、合コンでアピールすること、飲み会で一目置かれること以外にも、私たちが生活を豊かにします。                          筆者は現在ダイニングバーで働いており、各種資格・検定を取得しようと努力をしている ひとりの学生でございます。                               この記事を見て、お酒を少しでもお好きになっていただくきっかけになれば幸いです。

ジャパニーズウィスキーの歴史~竹鶴政孝のロマン~

 

みなさんは日本国産ウィスキーが世界の5大ウィスキー(カナディアン・アメリカン・スコッチ・アイリッシュ・ジャパニーズ)のひとつに名を連ねていることをご存知でしょうか?

 

日本の技術は高いと評判ですが、洋酒の分野でも有名とは、、先人おそるべし。

 

今回はそのジャパニーズウィスキーもとい、国産ウィスキーの歴史についてウィスキー初心者なりに解説していきたいと思います。

 

【ジャパニーズウィスキーの父】

もはや知らない人はいないでしょう、サントリーとニッカ。(サントリーに関しては2014年にジムビームで有名な米ビーム社を買収し、売上世界3位の座を得たことで世界的に有名になりました。)

 

この有名な日本の酒造メーカー2社の間には、二人の創業者の間で繰り広げられる美しく、誇り高い歴史が存在します。

 

このストーリーはドラマ「マッサン」でも取り上げられましたが、大正時代・昭和時代の日本の成長にかかわる二人の業績は見ていて胸にこみあげるものがあります。

 

今回は「ニッカウヰスキー」の創業者である竹鶴政孝に絞ってお話します。

 

そう、何を隠そうドラマの主人公、マッサンこと竹鶴政孝こそニッカウヰスキーの創業者であり、”ジャパニーズウィスキーの父”と呼ばれる男です。

 

その子孫は今でもニッカウヰスキーの伝統を受け継いでおり、「宮城峡」「余市」などのシングルモルトウィスキーから、「竹鶴」のようなピュアモルトウィスキー、「ブラックニッカ」のようなブレンデッドウィスキーまでその種類の豊富さからは想像のできない高品質さを誇ります。

シングルモルトウィスキー・ピュアモルトウィスキーなどの用語の解説は別の記事で書こうと思っています。

 

さっそく竹鶴正孝の職人としての浪漫と努力について触れていきましょう。

 

 

竹鶴17年ピュアモルト 700ml

 

フロム・ザ・バレル 500ml

フロム・ザ・バレル 500ml

 

 

【竹鶴正孝の生い立ち】

1894年広島県賀茂郡竹原町:現・竹原市で酒造業・製塩業を営む竹鶴家の四男五女の三男として生まれました。幼いころから柔道を習っており、好奇心旺盛な政孝は暴れん坊であったといいますが、この柔道経験が後に竹鶴の人生で役立つことになります。

 

高校を卒業後、広島から出る決意をし、大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)の醸造科に入学します。この背景には、2人の兄が家業の酒造業を継ぐことを渋ったこともあるそうです。卒業を迎える1916年3月、当時はまだ新しいものであった洋酒に興味を持った竹鶴は、大阪高等工業高校の先輩である岩井喜一郎(摂津酒造常務)を頼って、洋酒業界の先端であった大阪市の摂津酒造(1964年宝酒造と合併)を訪ねて卒業を待たずして入社。現代では到底こんなことはできない、、、。

同年の12月には徴兵検査があったので、本当はそれまでの期間限定の予定だったようで。

 

 

【摂津酒造での活躍】

入社後は竹鶴の希望通りに洋酒の製造部門に配属され、現場に張り付いて試験を繰り返し、その好奇心とまっすぐな姿勢が認められ、入社間もなく主任技師に任命されます。

 

そしてその夏、さらに竹鶴の評判を一気に高めた出来事が起きます。

 

ある商店の店先でアルコール殺菌が十分でなかったブドウ酒の瓶が破裂する事故が起きたのです。一方で、竹鶴が寿屋(のちのサントリー)から委託されて製造していた「赤玉ポートワイン」は徹底した殺菌が施されており、破裂事故を起こすことがなかったのです。そのため、竹鶴の酒造職人としての評判はみるみる世間に広がっていきました。

次の記事で書きますが、この「赤玉ポートワイン」が竹鶴正孝と鳥井信治郎の運命の始まりになります。

 

まもなく徴兵検査に向かうことになった竹鶴でしたが、「アルコールを扱う技術者として製造に従事させたほうが軍需産業に貢献する」とされ、結局入隊しないですむことができました。そして竹鶴は摂津酒造に勤続することに決めました。

 

スコットランドへの留学】

入社から2年が経った1918年、24才の竹鶴は単身スコットランドへ二年間留学することに。この留学は日本初となる純国産ウィスキーをいち早く作りたいという摂津酒造の計画が背景としてあります。当時国内には模造品のウィスキーしか出回っておらず、国産のウィスキーは存在していなかったのです。

 

スコットランドへ渡った竹鶴はグラスゴー大学酵素化学などの勉強をするのと同時に、実習を受け入れてくれるウィスキー工場を探して回りました。しかし、イギリスで生まれたウィスキー。当然現地の職人たちは、その伝統として守られてきた門外不出の秘伝の製法を外国人である竹鶴には教えようとはしません。

 

それでも竹鶴はつたない英語で、なんとしても日本でイギリスの伝統的なウィスキーづくりに挑戦したいんだ、とひたむきに情熱を伝えながら実習をさせてくれる工場を探し歩きました。あきらめない強い心と生真面目さにイギリス人も次第に心を開いていき、竹鶴はキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所で実習を行うことになりました。

 

蒸留所で実習を始めた竹鶴は本格ウィスキーの製法を余すことなく日本に持ち帰ろうと、見たもの聞いたものすべてをどん欲に記録しました。彼がとくに注目したのが、蒸留所の中で最も目立つポットスチルでした。竹鶴はその窯の仕組みを知ろうと、イギリス人たちが嫌がるポットスチルの掃除も裸で入って窯の内側をたわしで磨いていたといいます。

 

そうして得た知識をすべてつぎ込んだノートとともに日本へと帰国します。

 

【妻リタとの出会い】

竹鶴のスコットランド留学はこのリタとの出会いなくしては終われません。

 

実は、竹鶴はグラスゴー大学で勉強している期間中、知り合った女学生の弟ラムゼイ・カウンに柔道を教えていました。そしてその姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と交流を深めます。そして両家に反対される中、帰国前にふたりだけのささやかな結婚式を開きました。当時では珍しい国際結婚でした。

 

この妻リタの存在が、のちに夫である竹鶴を大いに支えるのです。

 

 

【ジャパニーズウィスキーの誕生】

1923年、寿屋(のちのサントリー)の社長である鳥井信治郎は本格的な国産ウィスキーの製造を始めることを決意し、酒造職人の募集を開始しました。

 

そのころ竹鶴はというと、留学から帰国後に企画した純国産ウィスキー製造が第一次世界大戦の戦後大恐慌の影響で頓挫し、摂津酒造を退職。その後高校教師として大阪の高校で化学を教えていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~お酒を愛する者は素材をも愛し、その土地を愛し、人を愛する~